4.山林の歴史と現状

4-1 昔話に出てくる山林と林業の起源

 こうした、山林の利用がいつごろから始まったかは定かではありません。
 有名な昔話に、度々出てきます。

 竹取物語:  竹取の翁が竹を切っている。(竹林の利用?)  
 桃太郎:   おじいさんが山へ芝刈りに行っている。(薪拾い) 
 金太郎:   金太郎がマサカリをかついでいる。(材木の伐採)

等があげられ、人物史である金太郎の説を除けば、物語が編集される以前に伝承により伝わっているので、それ以前より山と密着した背景があり、山林が利用されていたことがうかがえます。

昔は、山へ行けば(天然の)木が生えていて、人口も少なく、多くの材料を必要としていなかったので、人工林をわざわざ作らなくてもよかったようです。
縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の高床式住居は、周辺の木を伐採すれば作れたので、計画的な人工林を形成しなくても済みます。(ただし、この頃の大工技術は高いレベルだったようです)

飛鳥、奈良時代に入り、日本の国のシステムが形成され、大規模な寺院や都が作られるようになると、大量の木材が必要となり、まず周辺の山が伐採され、そこに計画的に植林されるようになり、これが現在の林業のはじまりです。

4-2 村による里山の利用

社会や生活の場は町や市が一つの単位となっていますが、昔は村が社会の基本で、村の人たちが協力し合って成り立つ共同体でした。
その基盤は里山で、ひとつの谷を中心に、その麓(ふもと)に集落を形成し、そのまわりに田や畑がひろがります。 集落から林道を少し上った所に神社があり、そのまわりに杉などを植林しておく利用林があり、それより上は雑木林が広がり、燃料となる薪などを採取します。また、山菜などの恵みもありました。

昔の村は共同作業で森林や田畑や家を守ってきました。
人工林は必要最小限で、それ以上の雑木の開拓は水源の確保の点から不利になります。農作物もこの水を利用しているので、谷の水が枯れるということは死活問題で、山を持っていない平野の村では水をめぐって争いが絶えなかったようです。 自然林の豊かな生態系の産物である動物の捕獲は麓の村にとっては貴重なタンパク源でした。

植林されて得た木も、伐採した木は何回も使ってきたようです。(切出した丸太は始め、屋根や梁に使われ、最後には床に使っていました。)

屋根も「カヤ畑」で育てた材料を共同作業で葺き替え、次の年には別の家を葺き替えて、くりかえすことで屋根をリフレッシュしてきたのです。
農業が中心の村社会では、農閑期を利用しての山の整備や家造りをしてきました。

        
4-3 戦中、戦後

戦中、戦後の物資不足を補う為に、里山の木が大量に伐採され、森林資源が枯渇した状況となりました。 失業対策と乱獲された山を整備する目的で里山を中心に杉の植林がさかんに行われ、学校植林運動も展開されたのもこの頃で、現在50〜60年生の木が多いのもこのためです。 植林は主に、住宅の材料となる「スギ」が植えられ、里山よりも更に奥地の山頂付近まで植林されることもありました。

森林の復興

 戦時中、森林生産力を無視した空前の伐採が行われたために、国土は荒廃しハゲ山が続出した。荒れた国土を再建するためには、森林復興が急務であった。森林資源造成方がこれに応じて制定され、以後、国庫補助による造林をすすめることになった。また民有林の施業案の編成および検討が昭和22年からはじめられた。しかし、戦後も木材に対する需要が戦時中に劣らず膨大であったので、過伐、早伐が盛んに行われ、国土はますます荒廃した。23年に相次いで来襲した台風は県下各地に大きな被害をもたらしたので、県民はあらためて国土の荒廃の実態と森林復興の急務を痛感させられた。

 24年から、学校教育の面から造林意識、愛林思想の養成普及をめざして学校植林運動が強力に展開された。県では25年春、学校植林推進連合協議会が設置され、それが中心となって学校植林コンクールを毎年実施し、「学校植林のしおり」を発行し、愛林思想の普及に努力した。33年までに1102ヶ所(小学校81、中学校699、高等学校322)がこの運動に積極的に参加し、約1300haの森林に植林した。

 その間、25年1月に衆参両院で国土保全と挙国造林に関する決議がなされ、衆議院議長を委員長とする国土緑化推進委員会が設立された。県でも、これに呼応して25年4月新潟県国土緑化推進委員会が結成され、これが中心となって国土緑化の一大県民運動を展開した。緑の羽根募金運動や講和条約締結記念植林や新市町村建設造林、さらには青少年に森林観察の機会を与えるためグリーン・バスを運行したりして緑化思想の普及に努めた。またクリスマスツリーや門松使用自粛運動も行われた。

 昭和26年6月に森林法が全面的に改正されたが、それは森林資源の維持培養と森林生産力の増進をはかるとともに、森林の防災機能を強化することを目的としたものであった。新潟県では、県全域を11の基本計画区に分け、さらにこれを56森林区に分けて、それぞれ基本計画、森林区施業計画、森林区実施計画を作成した。

新潟県百年のあゆみ  発行 新潟県


4-1 高度経済成長期

高度経済成長期に入り、住宅をはじめとする木材の需要がさらに増大し、国内の供給量を補うために、外国から木材が入るようになります。
国内の丸太生産量は1965年まで増産体制にありましたが、(それでも1955年の1割増し程度)1970年から徐々に生産量が下がっています。(現在では1955年の4割程度の生産量となっています)
その分、国内の木材需要の増加をささえたのは、輸入材で、1960年から1975年にかけて供給量を伸ばしています。


高度経済成長期は都市部での労働力が不足し、若い労働力が街へ駆り出されることになりました。大手企業も安い賃金を求めて、農村部へ工場を誘地しはじめます。 人手の減った地方山村では燃料革命も手伝って、造林地・里山は整備されることがなくなり、荒れる一途をたどります。
輸入木材・化石燃料に頼るようになると、地元の木材が流通システムから外れるようになります。


 一方、製品価格は、1955年から徐々に上がっていったのですが、(1倍から20年で2倍)1971年から1973年にかけて急激に上昇します(2年間で1955年の2.5倍から4.5倍)。

その後はほぼ横ばい状態で、バブル期、バブル後もほとんど影響を受けていないようです。
国内の生産量は1970年代から減っていますが、価格だけは膨大に上がってしまっています。これは、オイルショックによる人件費、エネルギー費が増えてしまったのが要因のようです。

国内スギの売上高は、生産量自体は減少傾向にあったものの、高度経済成長期の輸入材の増加に伴って上昇し、1980年をピークに下がっています。
現在では1955年の売上高に近くなっていますが、生産量自体は半分にまで落ち込んでいます。

生産高=用材の生産量×(スギ)価格 を全国のスギ売上高に比例するとして予測

     スギの価格は立木、丸太、製品ともに1955年から1970年まで徐々に上昇し、1980年頃にピークを迎え、立木、丸太は現在まで徐々に減少しています。(ピーク時の30〜50%)

製品価格は、1980年にピークを迎えたものの、現在までそれほど値段を下げていません。1975年の60000円/m3からほぼ横ばい状態で現在に至っています。
これは、製材や製品コスト(人件費、エネルギー費)の増加と、生産量の減少により、流通システムにのりにくくなったことが要因のようです。
また、材木屋も製材自体を辞めて、既製品の流通に頼ってしまう体質になり、在庫が減り、受注生産に近くなってしまい単価が上がっている要因もあるようです。

日本式和風建築が減り、需要自体が減ってしまった要因もあります。

県産材の製品販売価格は60000円/m3前後で全国よりもやや高めとなっていますが、これは生産地(九州、四国、南紀)の低価格に押されているためです。
丸太価格は下がっているので、スギの需要を増やし、流通システムを改善すればコストを下げ、輸入材に対抗することも可能のようです。

4-2 現在〜山が荒れている

戦後60年経って、終戦当時に大量に植林されたスギは、木材として利用できる時期となりました。
高度経済成長期の生産の合理化によって、山を管理する人も切出す職人も希少になり、また国内のスギを使った和風建築も減り、これらの地元産材を流通に乗せることが困難な時代となりました。

木材価格(原木丸太・製材品)は循環利用できない価格で流通していて、日本国内の問題として、再造林されない森林が拡大しています。
再造林しない現場から切出された国産材や乱開発の外国産材が流通しているため、伐採を検討する所有者さえいない状態です。

需要のない杉はそのまま放置された状態になっています。若手も農村から街へ移住し、山に入って手入れをしなくなり、枝打ちも間伐もしていない山林が増えています。 森林組合を中心に手入れをしていますが、その予算も無いところでは荒れてくるようになりました。林道の見分けがつかない山も出てきています。

4-3 未来〜10年ももたない

そんな状況の中、大金を積まれれば山林を売り渡してしまう山主も出てきました。
買い取られた山林は開発されて、ゴルフ場やスキー場などのレジャー施設へと姿を変え、土砂採取場やベントナイト掘削など、山が削られる場面も見られます。

このように開発された場合、山林としてとして役に立たなくなってしまいます。
水源としての山林は、上流に住む人たちの無償の努力によって維持されてきましたが、山を管理してきた人たちも高齢化し、その技術や知識、文化は継承されること無く消える運命にあります。

あと10年もすれば、その知識も途絶えてしまいます。



鞄。川建設
TEL 0258-35-1851